Side O

夫が、バスルームで口笛を吹いている。
彼がトイレ掃除をしているのだ。

普段は口笛を吹くことのない彼が、トイレ掃除をするときだけは口笛を吹いている、そのことに気付いたのは、結婚して少したった頃だ。
曲は決まっていない。
今時のポップスのサビの部分だったり、小学生の音楽の教科書に載っていた曲だったり、昔流行ったコマーシャルソングの一節だったり。

掃除を終えリビングに戻ってきた彼に、私は尋ねた。
何故トイレ掃除をするときだけ、口笛を吹くのか、と。

「え?」

彼は少し驚いたようだった。

「気づいてた?」

そりゃあ当たり前だ、毎日一緒に生活しているのだぞ。

彼は私の座るソファの隣に座ると、私の肩に腕をまわして、髪にキスした。
「・・・こんな話を聞いたことある?
トイレで歌を歌うと、トイレの妖精が出てきて、歌に合わせて踊るんだ」

トイレの妖精?踊り?
何だ、それは?

「昔俺が小さい子供だった頃、トイレで用を足しながら歌を歌ってたのさ。
そしたら母さんが、
『トイレで歌なんか歌うと、トイレの妖精が出てきて、歌に合わせて踊るわよ』
って言うんだ。
・・・あ、笑ったな。
今考えると俺も笑っちゃうんだけどね、その時はちょっと怖くなった。
だからそれ以来、今ではまさかそんな、と思うんだけど、トイレで歌は歌えない」

 



で、なんで口笛かって言うと。
ジャルジェ家に引き取られたばっかりの頃、おばあちゃんに口笛を禁止されたんだ。
行儀が悪い、って言われてね。
死んだ父さんがよく口笛を吹いていて、俺も練習していたんだけど、それができなくなってしまった。
そしてその後すぐに、おばあちゃんにトイレ掃除を言いつけられた。
「お屋敷に置いていただくんだから、しっかりご奉公するんだよ」って。

あの頃はまだジャルジェ家は改装前で、従業員用のトイレは暗くて汚かった。
俺もまだ8つだったし、そんなトイレの掃除は辛かった。
そこで閃いたんだ。
口笛でも吹けば、ちょっとは楽しく掃除ができるんじゃないか?
そして、一人で掃除をしている時なら、誰にも口笛を聞き咎められないんじゃないか?
俺にとってトイレは歌は歌っちゃいけないところだけど、口笛ならいいんじゃないか、と。

それにひょっとして口笛を吹いたら妖精が出てきて、掃除を手伝ってくれるんじゃないか、とか期待したりして。
もちろんそんなに都合よく妖精は出てきてくれなかったけどね。

少しして奥様に、「こんな小さい子にトイレ掃除をさせるなんて」っておばあちゃんが叱られて、俺はトイレ掃除を免除された。
俺が中学生になって、トイレ掃除くらい楽にこなせるようになった頃には、お屋敷も設備を一新して、従業員用トイレもすっかりきれいになった。
きれいになったトイレを掃除しながらも口笛は吹いてみたんだけど、結局妖精は一度も現れなかったな。
だけど、今でも、トイレを掃除する時には何となく口笛を吹いてしまうんだ。

 



・・・そうだったのか。
私がお前を剣で追い回したり、お前の髪の毛を引っ張ったりして無邪気に遊んでいたあの頃、陰でお前がそんな苦労をしていたとは。
お嬢様の私と、勤労少年だった夫。
それが今では、愛し合い、夫婦として結ばれ、人生のパートナーとして生活を共にし・・・。

そうだ! では私もトイレ掃除をしなければ。
料理や洗濯、家事も少しずつお前に教わっているのだ。
辛いトイレ掃除だって、私も分担してできるようにならなければならぬ。

「え?い、いいよ、そんな。
お前がやるような仕事じゃないし、俺一人で十分間に合うし」

夫はうろたえている。

だが、私もお前と同じようにトイレを使用しているのだ。
掃除だって平等にこなさなければ、対等な夫婦とは言えないのではないか?
お前の耐えた苦労なら、私も耐えてみせるぞ。

それに私ならトイレで歌を歌うのも平気だ。
軍歌でも、ラ・マルセイエーズでも、大声で歌いながら掃除をすれば、ひょっとしたら妖精が出てくるかもしれん。
そして、踊りながらあっという間にトイレをきれいにしてくれるかもしれんぞ。

夫は苦笑している。
「じゃあ、明日から一緒にトイレ掃除をしてみようか」
彼は私の肩をキュッと抱き寄せた。



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