遠すぎて近すぎて 前編

「ハッ・・・クション」
窓の外から、大きな声のくしゃみが聞こえた。
続いて何人かの兵士の笑い声、「神のご加護を!」の声。
そうか、今あいつはあそこにいるのか。

子供のころから聞きなれたくしゃみは、姿が見えなくても彼だとすぐわかる。

もう何日、彼の姿を見ていないだろう。
おそらくは3〜4日に過ぎぬのだが、もう何週間もたつような気がする。
私のデスクの上の「未処理」のトレーには書類の束、私がサインすべき箇所に付箋が貼られている。
青い付箋は、何も考えずサインして良い。
ピンクの付箋は、内容を一読の上サインすべし。
黄色の付箋なら、熟読しサインするか否か、私が判断する。
彼が下処理し、きちんと分別されている。
付箋の色に従って処理すれば、間違いはない。

この司令官室で姿を見ることはなくても、やるべき仕事はきちんとこなされている。
微かにイラッとする気持ちを抑え、私は書類の束を手に取った。
彼のことを考えるのはやめよう。
とにかく、自分の仕事をこなさねば。

この程度の量ならば、今日は定時に帰宅できる。
彼も今日は夜勤ではないはず、だが、何かしら理由をつけて、きっと私とは別に、ずっと遅くに帰宅するのだろう。


その日の夜、私の公用車がジャルジェ家の門をくぐると、車寄せに1台の車が見えた。
紺色のドイツ車。
今夜もあの男が、懲りもせず来訪しているのだ。
屋敷に入ると、迎え出たメイドが、皆さま晩餐の席でお待ちです、と言う。
いや、待たなくてよい。私は今日は体調がすぐれぬ。夕食は取らずに休む。
メイドは困ったような顔をしながら、一礼して引き下がった。

自室で一人、私服に着替え、手持無沙汰にベッドに横になる。
実のところ、体調は決して悪くはない。機嫌はすこぶる悪いが、それは空腹だからかもしれぬ。
だからと言って、今さらのこのこと晩餐の席にも出たくない。
あの男に恨みはないが、今さら、この年になって、求婚などバカげたことを。
父上も父上だ。私にこの家の後継ぎになれと男勝りに育てておきながら、今さら子を産めなど。
とにかくあの面子とは、同席してもイラつくだけだ。
一緒に晩餐など、言語道断、笑止千万。

だが、腹は減っている。
私は起き上がって、デスクの引き出し周りを探ってみた。
菓子の一つも入っていないかと思ったのである。
見つけたキャンディのひとかけらを口に入れたが、まだ口寂しい。
以前厨房からくすねてきていたワインは1本あるのだが、・・・いかんせん、コルク抜きが見つからない。

仕方ない。
我慢して寝るとするか。
私は再びベッドにドサッと横になった。

早くあの男が帰ってくれないか、彼は決して嫌な奴ではない、むしろ部下としては非常に有能で、育ちも良く礼儀正しく、好感のもてる男だったというのに。
私は務めて幼馴染のことは考えないようにしていた。


「結婚・・・!?」
あの言葉を聞いた瞬間、背後の彼を振り返っていた。
思わず顔を見合わせた。
真っ青になり、剣を落とし走り去った彼。
あの後、バイオリンのG線を切って怪我をした私の手当てをしてくれて以来、彼の姿をほとんど見ていない。

・・・いや、だから考えるのはよそうと思ったのだ。
空腹だから、余計なことを考えてしまうのだ、きっと。
メイドに頼んで、何か食べる物を持ってこさせようか。
そうだ、私は体調が悪いのだから、お粥のようなものか暖かいスープなどがよい。
厨房に電話して作らせよう。
私は枕元の邸内内線電話の受話器を取り上げた。
そして、手は無意識にボタンを押していた。

#1

押した瞬間、しまった、と思った。
「もしもし」
まさかと思っていた声が、応答する。
「・・・あ、・・・私だ」

#1、高校生の頃、ジャルジェ家の邸内に初めて内線電話が設置された時、真っ先に登録した彼の部屋の短縮番号。
どうせ不在だ、いるわけがないと思っていたが。

「何か用でも?」
「腹が空いた」
「え?それなら晩餐に・・・」
「今からお前の部屋に行く」
「は?おい、ちょっと」
「行くからな。そのまま部屋にいろよ」

私は受話器を置くと、静かにドアを開け、辺りに人がいないのを見計らって、自室の外へ滑り出た。
彼の部屋は三階、私は階段を一段飛ばしで駆け上った。


一瞬ためらったが、私がドアをノックすると、思いがけず、ドアはすんなりと開いた。
久しぶりに間近で見る彼を押しのけるようにして部屋に入らせてもらう。
この部屋に入るのも久しぶりだ。
必要最低限の家具のある、決して広くはない部屋に、簡易キッチンと小さなバスルームがついている。
高校生のころから変わっていない、きちんと片付いていて、それでいて彼の生活の香りのする部屋。
ハンガーラックには衛兵隊の軍服、ベッドの上には読みかけの新聞が広げてあり、ラジカセからは流行りのポップスが聞こえる。

「今日は帰りが早かったのだな」
「ああ、夜勤が続いたから、身体を休めようと思って」

夜勤続きだったのは、私と一緒にいたくなかったから、わざとシフトを変更したのだろう?
私はずうずうしく、ドシンとベッドに腰を下ろした。
彼は、身の置き所のないような、困ったような顔で部屋の隅に立っている。
ふと見ると、ベッドサイドに写真立て。

・・・!

びっくりした。
本当に心臓が止まるかと思った。
礼装の黒い髪の長身の男性が、白いドレスの栗色の髪の女性と寄り添っている。

「こ・・・れは、・・・ご両親、か」
「ああ、結婚式の写真だ」
「お父上、・・・そっくりだな」
「うん、父さんが結婚したのは30になる前だったから、今の俺よりちょっと若い」

本当にびっくりした。
まだ心臓がドキドキとしている。
お前が他の女性の肩を抱き、こんなに幸せそうに微笑んでいるのかと思った。

「お母上はあまりばあやとは似ていらっしゃらない」
「おじいちゃんに似たんだろう」

考えてみたら、この写真はずっと前から、子供のころからお前のベッドの脇にあった気がする。
そしてその写真の隣に、もう一つの写真立て。

「こっちはピアノの発表会か」

それは紛れもなく、私とお前。
小学校最後のピアノの発表会で連弾をした、その終演後に姉上が撮って下さった記念写真だ。
花束を手に並んで立っている二人は、なんだかムスッとした顔をしている。

「それより」
彼が私に向き直った。
「腹が減ってるなら俺のところに来てもしょうがないだろう?」
「何か食べる物はないのか?」
私は立ち上がって、簡易キッチンに据え付けられている小さな冷蔵庫を開けた。
「お、いいものがあるではないか」
数本の発泡酒の缶とポテトチップスの袋、ラップに包まれたカマンベールチーズのかけら。

「おい、やめろ、それは俺の大事な非常食だ」
「いいではないか、これくらい」
「厨房に言って何か作らせる。だから自分の部屋に戻って待っていろ」
内線電話の受話器を取り上げようとする彼を遮って、私は言った。
「いや、ファミレスに行きたい!」

「ファミレスぅ?」
彼が素っ頓狂な声を上げた。
自分でも、どこをどう押してファミレスが出てきたのかわからない。
だが口に出した以上、私は断固としてファミレスに行きたくなった。
「私はファミレスというところに行ったことがないのだ。是非行ってみたい」
「今から、か?」
「お前が連れて行かないのなら、私一人でも行くぞ」
私が部屋を出るそぶりを見せると、彼は渋々言った。
「わかった。支度をするからちょっと待ってろ」

財布の中身を確認する彼の後姿に、ほんの少し申し訳なさが湧いてくる。
給金の支給日前なのだ。
だが、私だって、今日はどうしてもファミレスに行きたい。行くと決めたのだ。

二人で静かに廊下に出、静かに階段を下りる。
人目につかぬよう、こっそりと1階の通用口から出ようとすると、廊下の向こうから母上付きの若いメイドが歩いてくるのが見えた。
メイドは私たちを見て、びっくりしながらも、慌てて黙礼する。
あのメイド、母上に告げ口いや報告するだろうか。まあ何を言われても構わない。もう子供ではないのだから。

車は通用口の近く、駐車場の片隅に停めてある。
当然のような顔をして助手席に乗った。
仕方なさそうな表情で、彼はエンジンをかけた。
視界の端に、紺色のドイツ車が見える。
あの男、まだ居座っているのか。父上や母上と、一体どんな話をしているのやら。

門番が、戸惑ったような顔で通用門を開けてくれた。
彼が窓を開けて
「ちょっと出かけてくる。すぐ帰るよ」
車は夜の街を郊外へ向けて走る。




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