Coffee Break
書類の末尾にサインをしペンを置くと、軽く疲労を感じた。
目を上げると、時計の針は3時半を回っている。
まだ仕事は山積みだが、ここで少し休憩した方が能率も上がるだろう。
私は携帯電話を手に、席を立った。
兵士たちは勤務時間中、カフェテリアはひっそりとしている、はずだが。
「あーっ、隊長さん!こっちこっち!」
カフェテリアの隅に陣取っているのは、フランス衛兵隊女子会御一同様。
口の悪い兵士たちに言わせると、おばちゃん軍団、である。
短い午後の休憩時間、彼女らはここでお茶やコーヒーを飲み、お菓子を食べ、盛んにおしゃべりをして過ごすのを習慣にしているのだ。
我がフランス衛兵隊に勤務する女子は、私だけではない。
厨房、購買部、そして清掃要員、非正規採用の女性たち十数名が私たちの軍務を陰で支えてくれている。
そのことに気付いたのは、私が結婚する直前、彼女らから結婚祝いの申し出を受けた時だった。
そして気付かせてくれたのは、かつては私の優秀な片腕、現在は愛しい夫であり有能な主夫であるアンドレのさりげない心遣い。
・・・だが、それはまた別の話である。
私は結婚後、その片腕が退職してしまってから、衛兵隊女子会に加入し、時折午後の休憩を彼女らと過ごすようになったのである。
私に向かって明るく手を振ってくれているのは、女子会のリーダー的存在、厨房の影のボスといわれるマダム。
「お疲れ様ー!こっち来て座んなさいよ」
その隣には、私の部屋の清掃担当のマダム、購買部レジ係のマダム、他の女性たちもにこやかに、にぎやかに私を迎えてくれる。
早速私の方に、コーヒーの入ったカップと数個の個包装のお菓子が渡された。
彼女らのもっぱらの話題は、ご亭主への不満、子供の教育の悩み、流行りのアイドル、テレビ番組・・・。
多少言葉遣いに差はあれど、かつて勤務した宮廷でも貴婦人たちは似たようなことを話題にしていたものだ。
そう考えると、私の方としては彼女らと共に過ごすことに全く抵抗はない。
彼女らも、当初は私の地位の高さや派手目の外見に多少引きしたようだったが、最近はすっかりなじみ、新婚ということであれこれいじってくるようにもなった。
「隊長さん、グランディエさんの最近の写真、ないんですか〜?」
「待ち受けにしてないの?見せて下さいよ〜」
アンドレはかつて衛兵隊の人事・総務の担当者として、非正規職員の女性たちの採用や労務管理なども担当していた。
それゆえ女性たちは皆、アンドレのことを「グランディエさん」と呼んで慕ってくれているのだ。
「そうだな、先週末、料理をしている写真があったはずだ」
携帯を開けて見せたのは、エプロン姿のアンドレ、我が家のキッチンで、右手にワイングラスを持ったまま左手でフライパンをあおっている姿である。
「うわ〜、ヤバい!イケメン!」
「あ、これあたしたちがプレゼントしたエプロンですよね、使ってくれてるんだあ!」
「いいわねえ、料理男子!」
「メニューは何だったの?」
この日のメニューは、確かエスニック、・・・日本料理だった。
「『薄切りビーフとスライスオニオンのソイソース風味ソテーを添えた白いライス、プラムで味付けをしたジンジャーピクルスと、ハーフボイルドエッグとともに』・・・だったと思う」
マダムたちは羨ましげにため息をついた。
「まあっ、おしゃれ!日本料理!」
「私も誰かに作って欲しいわあ」
「お肉と玉ねぎをソテーしてソイソースで味付けするんですか?」
「ああ、それに砂糖も入れていた」
「ええっ?お肉に砂糖?」
「お料理が甘くなっちゃうんじゃないの?」
「ビーフは『シモフリ』という軟らかい種類だったが、砂糖を加えると肉がより軟らかくなるそうだ。ソイソースの風味と相まって、絶品であったぞ」
「へえ、やってみようかしら」
なんだかんだと喋っている間に、彼女らの休憩時間は終わってしまった。
テーブルの上をテキパキと片付け、三々五々、仕事に戻っていく。
私も執務に戻らねば、と席を立ったところに一人の年配のマダムが近付いてきた。
初めてお目にかかる女性である。
「隊長さん、ご結婚なさるのならその前に私に相談して下されば良かったのに。そうしたら『結婚なんてするもんじゃない』って教えてさしあげられたのにねえ」
彼女はニヤリと笑うと立ち去った。
呆然とする私に、近くにいたマダム、厨房の影ボスが慌てたように説明した。
「彼女はお掃除のスタッフで、シフトの関係であんまり昼間には来ないんできっと隊長さんは初めてお会いになるのよね。彼女、悪い人じゃないんだけどね・・・」
清掃のマダムも
「そうそう、悪い人じゃないんだけどちょっと口が悪くて、いつも一言多いんですよ、申し訳ないです」
とフォローする。
新婚の私には理解できないが、長らく結婚生活を続けていると、ご亭主に対して様々な不満も蓄積されてくるのだろうか。
「でも隊長さんとこは大丈夫よ。グランディエさん、隊長さんにメロメロだもんね」
「そうそう、グランディエさんが隊長さんに愛想を尽かすなんてことないですよ、きっと」
そ、そっちか!?
夫に対する私の愛情が薄れるのではなく、私が夫に愛想を尽かされると?
確かに我が家は逆転カップル、世間の一般的な夫婦とは役割分担が逆であるが・・・。
アンドレが、私のことをどれほど愛してくれているか、彼女たちにはわかるまい。
私が他の男性に心を寄せていた時ですら、彼は私の傍らで、深く、静かに、私を愛してくれていた。
そして私が彼への愛に気付き二人の心が通じ合い、愛はさらに深まった。
私達がどれほど激しく愛し合っているか、深く信頼し合っているか、どれほどお互いを必要としているか。
そんな彼が、いつの日か結婚生活に倦み、私に愛想を尽かすなど・・・。
そんなことがあり得るとでも?
彼に限って・・・、まさか、いや、だが、そんな・・・。
「ただいま」
自宅玄関のドアが開くと、ほのかに香ばしい香りが漂ってくる。
「お帰り。疲れただろう」
私の浮かない表情にひょっとしたら気付いているかもしれないが、夫は私を笑顔で迎えた。
優しい抱擁、口付け、暖かいぬくもり。
ああ、そうだ。
私はこのぬくもりを永遠に私だけのものにしたくて、そして結婚という形式を選択したのだった。
「食欲をそそる香りがする」
「お前が日本料理を気に入ったようだったから、新しいレシピに挑戦してみたんだ。今夜は『ポークのコトレットと、魚介ブイヨンとソイソースで味付けしたスライスオニオンの入ったスクランブルエッグに、白いライスを添えて』だ」
この幸せを、永遠に手放したくはない。
そのためには、私も努力しなくては。
「私もキッチンを手伝うぞ」
「じゃあ、手を洗って早く着替えておいで。その間にスクランブルエッグができる。盛り付けを手伝ってくれるかな」
お前を思いやり、感謝することを忘れず、お前のお陰で私はこんなに幸せだと、愛を伝えよう。
お前の優しさといたわりに、安穏とすることなく。
そして今日マダム達に言われた、あれやこれや、それがいつまでも、永遠に笑い話のままであるように・・・。
Fin