忠実なるものへ

よく晴れたある日の昼下がりのことです。

王太子妃付き近衛兵であるオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェが同僚のジェローデルとベルサイユ宮殿の庭園を歩いていると、不意に脇の草むらで何かがごそごそ動く音がしました。
オスカルが屈みこんで見ると、そこにいたのは一匹の子犬でした。子犬は昨夜の雨に打たれたのでしょうか。泥まみれでした。オスカルは子犬の黒い瞳に引き寄せられるように手を伸ばしました。
「お前、一人ぼっちなのか?母上や兄弟とははぐれてしまったのかい?」
ジェローデルは顔をしかめて言いました。
「そのような薄汚い犬などかまうのはおよしなさい。どうやら雑種のようだ。打ち捨てて置かれるがよい」
しかしオスカルは純白の軍服が汚れるのもかまわず、子犬を抱き寄せました。
「可哀想に…。私は明日から休暇で、これから屋敷に戻るところだ。一緒に来るがいい」
オスカルは子犬をジャルジェ家の屋敷に連れ帰りました。

オスカルはばあやに言いつけて子犬に餌をやり、馬丁のジャンと一緒に子犬を洗ってやりました。きれいになった子犬は全身真っ黒な毛並みでした。
ジャンは言いました。
「純血種ではないようですね。生後2ヶ月くらいでしょうか。足が大きいですから、大型犬になるかもしれません」
「そうか。では首輪は大きめに誂えてくれ。色は白がいい」
オスカルは子犬にアンドレと名づけました。

ジャンの誂えてくれた首輪はアンドレにはぶかぶかでした。
オスカルは首輪の裏に
「オスカルの忠実なる愛犬アンドレ」
と書きました。
オスカルはアンドレに首輪を巻いてやりながら言いました。
「これでお前は私の犬だ。仲良くしような」
アンドレは嬉しそうに尻尾をパタパタさせました。

アンドレはその日からジャルジェ家で暮らし始めました。
オスカルが出仕する時には一緒に行く訳にはいかないのでお留守番です。玄関でオスカルを見送った後、馬小屋でジャンと遊んだり、ジャルジェ夫人と庭園を散歩したり、ばあやが玄関脇に作ってくれた寝床で昼寝したりして一日を過ごしました。そしてオスカルが帰宅すると、アンドレは玄関で真っ先に迎え出てオスカルの顔をぺろぺろと舐めました。
オスカルが家にいる時はアンドレはオスカルから離れようとしませんでした。食事の時はオスカルの足元に伏せ、書斎で読書する時は並んで長椅子に寝そべり、居間でバイオリンを弾く時はオスカルの正面にきちんと座り、演奏を聴きました。
そして夜はオスカルの寝台で一緒に眠るのでした。

1年もするとジャンが予言したとおり、アンドレはふさふさした黒い毛が少しカールした、堂々とした大型犬になりました。最初はぶかぶかだった白い首輪もぴったりと合うようになりました。
アンドレは明るくて、行儀が良くて、賢い犬だったので、ジャルジェ家の人たちは皆アンドレを可愛がりました。
そして誰よりも、オスカルにとってアンドレは親友でした。女でありながらジャルジェ家の跡継ぎとして男として育ったオスカルには、親友といえるような人間がいなかったのです。
オスカルは寝台の上でアンドレにいろいろなことを打ち明けました。嬉しかったこと、楽しかったこと、仕事の悩み、そして片恋の辛さ…。オスカルが涙を見せるのはアンドレと二人で、いえ一人と一匹でいる時だけでした。そんな時アンドレはオスカルの頬をぺろぺろと舐めてくれ、オスカルはアンドレのふかふかの身体をきゅっと抱きしめ、そのぬくもりに癒されるのでした。

いくつもの夏が過ぎ、冬が過ぎ、オスカルの身にもいろいろな出来事が起こりました。
近衛兵から近衛連隊長に昇進し、首飾り事件や黒い騎士事件の解決に取り組み、初恋と失恋を経験し、そして今は近衛隊から衛兵隊長に転属して気の抜けない忙しい日々を送っていました。

アンドレはそんなオスカルを毎日、尻尾をパタパタさせて見つめながら、少しずつ年老いていきました。
黒葡萄のように艶やかだった毛並みも、脂っ気が抜けてぱさぱさになってきました。
黒曜石のように濡れて輝いていた瞳も、白内障でしょうか、白濁してきていました。
若い頃は毎日駆け回って遊んでいたのに、今は一日中玄関脇の寝床でうとうとしています。足腰も弱ってきたようです。
それでもオスカルが帰宅すると真っ先に出迎え、夜はオスカルの寝台に必死によじ登るのでした。
ジャンは言いました。
「普通、犬の寿命は十年からせいぜい十五年程度です。アンドレはもう十八年近く生きている。人間で言えば百歳近いのです。視力も弱ってきているようですね」
「そうだな。一層、いたわってやらねば」
オスカルは、アンドレが階段を上り下りしなくて済むよう自分の寝室を一階に移し、寝台もアンドレが上りやすいように低いものを特別に作らせました。

そんなある日のことです。オスカルに「求婚者」なるものが現れました。それはかつてアンドレのことを「薄汚い雑種」と蔑んだジェローデルでした。
「私のこの胸でよければ、あなたの苦しみも悲しみも涙も、年老いた愛犬も…、すべて預けてください…」
ジェローデルにこのように口説かれ、彼氏イナイ歴三十数年のオスカルはついクラクラとしてしまいました。
先年大失恋したオスカルにはその後、特にこれといった男性は現れていませんでしたし。

では正式にお返事をする、と約束したその日、ジェローデルが意気揚々とジャルジェ家を訪れると、オスカルは不在でした。パリで発生した暴動への対応に追われ、帰宅は深夜になるというのです。
しかたなくジェローデルが馬車に戻ろうとすると、玄関脇で寝ていたはずのアンドレが馬車の近くをうろうろしているのが見えました。するとアンドレは不意に片足を上げて馬車の車輪に○○○○を引っかけたのです!それを見たジェローデルは激怒しました。
「何をする!この老いぼれのくたばりぞこないめ!」
ジェローデルはアンドレを蹴飛ばしました。よろけるアンドレにさらに二、三発蹴りを入れ、ジェローデルは馬車に乗り込んで行ってしまいました。
それを見ていたばあやは慌ててアンドレに駆け寄りました。アンドレはぐったりとしていました。

深夜に帰宅したオスカルはばあやから一部始終を聞き、マジギレしました。悪いのはどう見てもアンドレなのですが。

翌日、薔薇の花束を持って再びジャルジェ家を訪れたジェローデルの目に飛び込んできたのは、玄関で仁王立ちになったオスカルでした。
「ジェローデル、望みどおり返事をしてやる。お前が私のアンドレにしたと同じようにしてな!」
オスカルはジェローデルを玄関から蹴り出してしまいました。そしてその日以来、ジャルジェ家の人たちがジェローデルの姿を見ることはありませんでした。

その夜、寝台でぐったりと横になるアンドレを撫でながらオスカルは言いました。
「もう、どこへも嫁がないぞ、一生…」
アンドレはうっすらと目を開け、尻尾をかすかに揺らして、また目を閉じました。

アンドレはもうすっかり衰弱していました。オスカルの寝台から降りることもままなりませんでした。ジャンやばあややジャルジェ家の人たちは、精一杯アンドレを介抱しました。勿論オスカルも屋敷にいるときはアンドレに付きっきりでした。それでもアンドレの命の灯が日に日に細くなっていくのは避けられなかったのです。

ある夜、アンドレの傍らでうとうと眠っていたオスカルはふと目を覚ましました。
「み…ず…を…」
確かに声が聞こえた気がします。横たわっているアンドレの呼吸が、いつもより荒いようです。
「水…?あ、す、すぐ持ってきてやる。待っていろ」
オスカルは慌てて水を取りに走りました。しかし、水を手に戻ってきたオスカルが見たのは、すでに呼吸の止まったアンドレの身体でした。
オスカルの手から水入れが落ちました。

「うそだ、そんなことが!」
毎夜そのぬくもりにどれほど心を慰められたことでしょう。喜びをともにし、苦しみを分かち合い、近く近く魂を寄せ合った…。
「それなのに…逝ってしまうのか…私を一人置いて…!」
まるで心臓の半分を、身体の半分をもぎ取られ、引きちぎられたような喪失感と、激しい悲しみががオスカルを襲います。
オスカルは、アンドレの身体にすがって泣きました。
黒曜石の瞳は永遠に閉じられてしまいました。黒葡萄のような毛並みに覆われた身体は、硬く冷たくなっていきます。
オスカルはアンドレの首から首輪をそっとはずしました。元は白だったのにすっかり擦り切れて色あせています。首輪の裏の文字はかすれてしまって、かろうじて「オス…ルの…実なる愛……ンドレ」の文字が読めました。
首輪を手に、オスカルは泣きました。泣いて、泣いて、泣いて……。

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「オスカル、どうした?オスカル!」
オスカルが目を開けると、そこには黒曜石の濡れて輝くただ一つの瞳が心配そうにオスカルをのぞき込んでいました。
「こんなところでうたた寝をして、うなされていたぞ」
「あ、アンドレ…」
オスカルはアンドレの首っ玉にしがみつきました。
「ア、ア、アンドレが…、アンドレがぁ〜〜〜」
「落ち着けオスカル、俺がどうしたって?夢の中で何か悪さでもしたか?」
アンドレは優しくオスカルの髪をなでてくれました。オスカルはだんだん落ち着いてきました。
「え、え〜と…」
いくら夢の中のこととはいえ、犬になったお前がジェローデルに蹴られたあげく老衰で死んだ、と言うのはなんだか憚られます。
「…お前が私の前からいなくなってしまう夢を見たのだ」
「それで泣いてくれてたのか?光栄だ」
アンドレはオスカルの背中を軽くポンポンとたたきました。
落ち着いたはずのオスカルの心臓が、なぜだか再びドキンドキンとし始めました。それでいて、なんだかとても幸せなあたたかい気持ちになってきたのです。

「落ち着いたところで、そろそろ離れてくれないかな?」
オスカルが顔を上げるとアンドレはちょっと困惑したような表情を浮かべています。
「その…こういう体勢は誤解を生じるし…」
でもオスカルは離れたくありませんでした。だって、アンドレのぬくもりを感じていられるこの幸せを、手放したくはなかったのです。大切なぬくもりを失う、あの絶望的な悲しみ、あんな思いをするのは夢の中だけでたくさんでした。
「いや、誤解ではない。正解だ」
「?」
「だって、私は…」

オスカルはアンドレに自分の気持ちを告げました。


数日後、オスカルはアンドレに特別に注文したクラバットを贈りました。純白のクラバットの真ん中あたりには、白い刺繍で文字が縫い取られています。クラバットを締めてしまえば、外からその刺繍は見えません。
「ありがとう。大切にするよ」
刺繍の文字は
「オスカルの忠実なる恋人アンドレ」
と書かれていました。
オスカルはアンドレの首にクラバットを結んであげながら、心の中でつぶやきました。

「これでお前は私のものだ」


めでたしめでたし





2006/04/11 初出 「Thousand of Roses」様
2007/11/20 改訂 「きめそうこ」
2009/10/26 再掲

この作品は「Thousands of Roses」様における、2006年の春の企画のお題『クラヴァット』に投稿したものです。
投稿のためのネタを考えていた当時、車を運転中にFMラジオでかかった曲からヒントを得ました。
歌い手さんは若い女性二人組ですがユニット名は不明。曲名も不明。
その歌詞の中で彼氏を犬に例えていたのです。

具体的な歌詞は覚えていませんが、
♪あなたは庭の中を好きなだけ走り回っていいわ〜♪でも私が呼んだらすぐ戻ってきてね〜♪
みたいな内容でした。

そこからひらめいたのが、彼氏→アンドレ→愛犬→首輪→クラバット

そしてこんな作品が仕上がりました。

・・・実はこれを書く4、5ヶ月前に、13年飼った猫を亡くしました。
黒犬アンドレが死ぬシーンを書いている時はその時のことを思い出し、ちょっとうるうるしたりして。
この作品にはそういった意味で、個人的な思い入れがあります。
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